2015年3月12日木曜日

ラストシーン

今日はあっという間に夜になった。
暖かい春の一日。
夕方まで外へ出なかった。
事務仕事がいろいろ。

昨日のブログで3・11についてあえて触れなかった。
何も終わってはいないという実感だ。
そして書けば恐らく多くの人が聞きたくないところまで深入りしただろう。

いつも書く事だが、僕達は現場を通して最大限に答えたい。

伊勢神宮での佳子内親王の映像をテレビのニュースで見た。
立ち居振る舞いの素晴らしさ、美しさに見とれてしまった。
何か儚くも無垢なるものの凛とした佇まいというのか。
感動した。
日本のこう言った制度をどう考えるかとは全く別次元の話として。

以前に「終わりから始める」というテーマで書いた。
どんな風に書いたのか忘れてしまったが、
僕が様々な場所で発言したり書いたりしている中で核心的な部分だと思う。

また終わりについて考えていた。

何故作家もスタッフも場に立ち続けるのか。
僕には一つの答えがある。
それは一枚の絵のように明晰に見えている。
終わりの景色を見るために、僕達は場に入る。

見たい景色、見せてもらいたい景色、見せてあげたい景色。

現実に目を瞑るのは間違っている。
どんなに悲惨で堪え難いものであっても、しっかり目を見開いていなければならない。
なかったことにしたり、見ない振りをして逃げる人が多い。
でも、この現実は底知れず悲しいものでもある。
ままならないし、思うに任せないのが人生。
生きている限り、この事実から目を塞ぐことは出来ない。
そんな現実を真っ正面から生きている人達、生きざるをえない人達と出会って来た。
多くの人の挫折や無念も背負って来た。
見て来たものを僕は忘れない。今でも、そこに答え続けている。

どうしようもないもの。
僕らはどんなことになるのか分からないような現実を生きている。

だからこそ、自分も見たいし、人にも見て欲しい景色がある。
それを見た時にはみんなが、ああこれで良かった、素晴らしかったと思えるはず。

クラシックのすぐれた演奏では、
最後の場面でこれまでのすべてが目の前に現れて、意味付けられ輝く。
その時、初めて気がつかなかった細部がどんな意味だったのかが見える。
ありとあらゆるものが一つの場面の中で大切な場所におかれている。

物語は何の脈絡も無く流れていた。
そこには悲劇も喜劇もあって、それ以外の何でも無いものもある。
最後の情景が現れた時、これまでのすべてが思い出されて、
そして、その時には分からなかったことが明晰になって、
その時以上に生命を持って迫って来る。
音楽が流れ、エンディングロールが流れる。

ああ、なんて奇麗なんだ。なんて輝いているんだ。
全部のことがそれで良かったんだ。
それはハッピーエンドとは違う。
あえて言えばハッピーであり得ないことも含めて、それで良いと思える場面。

終わりとは物事の本当の姿が見える場面だ。
終わりに至るまでは僕達には断片しか見えていない。

そして終わりは、終わりにしかない訳ではない。
終わりはどんな瞬間を切り取ってもそこに存在している。
ただ僕達が見ようとしないだけだ。

終わりから照らして、今を生きて行く。
思い出すようになぞるように生きる。
そうすればもっともっと大切に物事を扱うことが出来る。

この宇宙や世界が、いつどんな風に始まったのか分からないが、
終わりから始まったのではないだろうか。
すべてが最初から完璧で、だからすべてが終わっていて、
遡るように始まっているのではないか。
始まりと終わりは同じものを別の角度から見たにすぎないのかも知れない。

僕達はどこかで終わりを記憶している。

制作の場で作家のこころから作品が生まれるプロセスは、
始まりからも終わりからも同じようにたどって行くことが出来るような、
不思議なものでもある。
選ばれる色や線にしても、一つ一つの瞬間にしても、
そのようにしかあり得ないような形になっている。

僕達にはそれは当たり前で、ラストシーンを知っていることが、
どれだけ制作の場に必要なことなのか、思い知らされている。

ここまで書いて来て、ちょっと今日のテーマは分かりづらいかも知れない。
というよりはこんな考えは不必要な人の方が多いのかも知れない。

今回は思い切って少数の人向けに書く。

これもプライベートな部分の体験であって、
もしかしたらこういうイメージが役立つ人がいるかも知れないので書いて見る。

変な話だ。
多分、どこでも話していないし、書いたこともない。

僕の最初の記憶と思われるもの。

僕は知らなかったのだけど、兄の上に産まれた時に亡くなった姉がいたそうだ。
母は一時期クリスチャンだったから教会にお墓があった。

その姉に関する記憶だ。
景色は白か灰色か、何の色も無いのか、僕は大きな建物の前にいる。
建物はただ巨大で四角い。これも大きな穴のような空間が広がっている。
穴には建物の中からしか入れない。
あたりには何一つ存在していない。
姉がいる。姉と言っても身体はなく、声だけの存在。
そのあまりに大きくて全体が見えない四角い建物の前で、
僕はずっと姉と一緒にいる感じがする。
こっち側に来たらだめだよ、と姉が言う。
あなたはこれから生きなければならないから。
こっちに来たらもう帰れないから、と。
そこに在るのは無限のような感じだ。
むこうに無限が見えていて僕は入り口にいる。
姉は声だけでむしろ、その無限の声のようでもある。
全部が終わったらあなたはここに帰って来るのだから、
今は安心してあっちにいきな、と姉が言う。
あっちに行くとはこの世界で生きることだな、
父や母のいる世界で人生を始めることだな、と思ったとき、
姉が、父が何故男になって、母が何故女になったのかを教えてくれた。

この情景は多分小さな頃に夢で見たのだろうが、
僕は大人になるまであれが夢だったとは思っていなかった。
たしか、何度か母にその話をした記憶がある。

あの場所は始まりの場所であり終わりの場所だった。

色んなことがあって、
たくさんの人のこころと言うものの深みに触れる仕事をするようになった。
今ではあれが何を意味しているのかが分かる。
人は誰しもこころの深い場所ではラストシーンを持っている。

始まりの記憶は終わりの記憶で、そこでこそ僕達は繋がっている。

あの場面の記憶はどんどん薄れて行ったけれど、
場に立ってみんなと見ている景色は、それと同じなのだと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。