2015年4月10日金曜日

ゆめまぼろしのごとくなり

本格的に寒い日が続く。
体調の悪い人も多い。

もう少し、何とか乗り切ろう。

昨年、東京都美術館でお話しさせて頂いた内容が、
中原さんの丁寧な作業によって纏められた。
こうして形として残して下さったことに深く感謝。
東京都美術館のHPからご覧になれます。
アーカイブのページから「紀要」を開いて下さい。

絵は形として見ることが出来る。僕達の生きているこの世界も。
では、それらの形がどこから来たのかと言えば、
形無きところからとしか言い様がない。

形は、僕達が頭の中で作ったもの、作り続けているものにすぎない。
固定してしまうと本当のものが見えなくなる。
人は自ら限界をつくり出す。

場に立つ時、僕らはいつでも動きを見ている。
決して固定しない。把握しきろうとしない。
だから揺れている。
揺れの中から少しづつ向かう方向を見定めて行く。

どうななるのか、何が起きるのか、全く分からない。

ダブをずっと聴いていると思う。
ダブは震えであり揺れであると。
決して安住しない固定しない、揺れ続け、震え続ける世界である、と。

水のような風のような、流れ動く柔らかな震え。

友枝喜久夫の舞もまた海のようだ。
その動きを見ているとすべては仮のものなのだと実感する。
ここにあるすべてが、固定されたものでも確かなものでもなく、
仮の姿としてそこに在って、やがては変容して行くプロセスにあるのだと。

気がつくと、ここにいる。
でも、確かにあそこにもいたはずだ。

全ては霧の中。

確かにあそこでああしてたはずなのに。
今もまた本当にこうしているのだろうか。

いったいここはどこなのだ。

今から20年くらい前に、ある事に気がついた。
人がそこにいて、その中に心と言うものが動いている。
そこへ入って行くと、見ていたものの見え方が変わるのだと。
今あると思っているものの奥に、もっともっと途方も無い無限があるのだと。

そして、気づけば場に立っていた。

20年という時間は昨日のこと、と言うよりはさっきのこと、
もっと言えば今あったばかりのことのように、そこにいる。
目を閉じて、すぐに開いただけのような感覚。

今でもまた場に立てば、振り出しで、あの入り口の場所にいる。

景色も揺れているし、世界も揺れている。
揺れや震えは決して止まろうとはしない。
色んなものを見せられて、流れに連れ去られて行く。
ずっとずっと遠くまで。

友枝喜久夫の動きを見ていると、本当に全てが走馬灯のように、
通り過ぎて行く。
ここは仮の場所。これは仮の姿。
柔らかくどんな形にも変化して行く空間。

ゆれ、ゆらぎ、ながれ。
夢の中のように柔らかく、そして鮮やか。
そう鮮明なのに、どこにも留まって固まることが無い時間。

制作の場とはそのような時間が流れる地点だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。