2015年6月22日月曜日

マイトレイとヨハンソン

みんな素晴らしかったです。
作品も自然の光の中でビックリするくらいに輝いていました。

ずっと純度の高い場が続いている。

この場をしばらくイサに託して三重へ行って来ます。

僕達は場の中で何処までも行くと決断した仲間のように感じている。

生きていて、様々な経験の中で、仕事においてでも、
残念で悲しいことに全力を出さない人が多い。
もっと高みに登れるのに、もっと輝けるのに、進もうとしない。
やりきろうとしない。
疲れたくないのかも知れない。自分をさらけ出すのが怖いのかも知れない。
全力を出した経験が無いのかも知れない。

でも、本当の一番根っこにある理由は何となく分かる。

この瞬間が輝けば輝くほど、終わってしまう寂しさがあるからだ。
今日が人生で最高の日だと想像してみれば分かる。
明日からどうしよう、という思い。

幸せの絶頂ほど、過ぎ去って行く悲しみを感じさせる。

大好きな人が精一杯の努力の結果、喜びを経験しているのを見ているとき、
その儚さに切なくなる。

こういうことは普段自覚している訳ではないけれど、
無意識の内に自分にセーブをかける理由になっている。

僕自身も孤独や切なさ、悲しさを強く経験して来た。
一回の場で全てを使い尽くして、空っぽになって、ああ、明日どうしよう、
と呆然としていた頃も実はある。
でも、いつの頃か決断したのだと思う。
行けるところまで行くのだと。どんな瞬間も命の限りを尽くして輝くのだと。

今ではそれがいかに大切なことなのか知っている。
行けるところまで行って、輝く瞬間の中で全てを使い尽くして、
みんなと幸せの絶頂を噛み締めて、空っぽになって場から離れる。
一人になって、その充実した時間の感触だけが残っている。
これで良いのだといつも感じる。

僕の使っているCDデッキは壊れかけている。
勝手にラジオがついたり消えたりするので、使わない時は電源を切っている。
でも時々忘れる。
今日も忘れていて、部屋に戻ると珍しく小さな音から始まって、
だんだんと聴こえるようにラジオがついた。
誰かが歌っていて、途中からオーネットコールマンが入ってくる。
人の声のように響いた。その声は泣き声でも笑い声でもあった。
喜びと悲しみはほとんど一つの感情なのではないかと、
これは美しいものに触れた時にいつも感じることだ。

最近、ようやく最後まで読めた小説にミリチャエリアーデの「マイトレイ」がある。
一応は恋愛小説ということでしか言えないのだろうが、
この圧倒的に美しく悲しい世界をどんなジャンルでもくくる訳には行かない。

例えそれが恋愛以外のことであっても、
人生の悲しみは別れにあるだろう。
友であれ、場所であれ、
出会った大切なもの全てがやがては別れて行けなければならない運命にある。

マイトレイは美しく儚いもの全ての象徴でもある。
主人公はマイトレイともう2度と会うことは出来ない。
その断絶は2人が出会った最初の頃から直感されている。
2人が強く輝く時間の中に居た時、そこが幸せの絶頂であると同時に、
すでに深い悲しみが伴っていた。

だから恋愛と別れと言うより、もっと深いものが感じられる。
人の死によって大切な誰かの顔をもう2度と見ることが出来ないように。

マイトレイとの深く美しく濃密な時間。
人生の輝きの全て。優しさと愛おしさと、過ぎて行く時間。
他にどんな選択肢があったのか。

「マイトレイ」を読む時間に、これもたまたまだったが、
ヨハンヨハンソンのアルバムを聴いていた。
それは映画のサントラ用に作られた音楽だった。
あまりにも美しい音楽。
マイトレイにはあの音楽が流れていて、
あの音楽にはマイトレイの情景が浮かんで来る。
僕にはもう何処までがどちらの魅力なのか分からない。
でも2つともあまりに美しいことによって結びつけられている。

音楽は何処からか始まっていつの間にか消えている。
所々で美がふっと現れる。形をなさないギリギリの淡い世界。

僕達は全力で生きていて、ある意味でその中で無我夢中になっている。
その時は見えないけれど、後で気がつくことがある。

心の奥にしまっておいて、ずっと言わないでいた方が良いことなのかも知れないが、
無くなることで、消えて行くことで、
初めてそれらと繋がることが出来るのではないか。
別れこそがその人と自分を本当に結びつけるのではないか。
全ては消えて行くからこそ、輝き、何か永遠性のようなものと繋がるのではないか。

主人公はマイトレイと2度と会えなくなった時にこそ、
本当の意味で繋がり、その後を生きていったのだろう。

ヨハンヨハンソンの音楽にしても、沈黙の中へ消えて行ってから、
聴こえて来るものの方が大きい。

寂しさや悲しさは人を真実に近づける。

全てが消えて行くと言う切なく悲しい現実を真っすぐに見つめたとき、
人の眼差しは透明になり、物事を曇り無く見ることになる。
そのとき、人は直感する。
いや消え去った全ては今この瞬間にここにあるではないかと。
確かに何一つ失われていないではないか、と。
全てが活き活きと、そこに在って、それは永遠のような何かを感じさせる。

生命とは本当に不思議で掛け替えのないものだ。

どんな時でも生きていることの素晴らしさを実感出来る場を創りたい。

2015年6月20日土曜日

見たことも聞いたこともない場所で

朝はとても良い光と風。

今日は何処まで行けるだろうか。

月曜日からまた三重に行きます。
しばらく制作の場を離れるので、この土、日の2日間を大切にしたい。

月日の経つのは早いものだ。

僕達は気がつくと、
どこか途轍もなく遠いところまで来てしまっているのかも知れない。

新幹線が開通してかまだ金沢へ行っていない。
数年前からいくつかの場所が消えた。
金沢も変わった。

これも数年前だったか、何処かへ向かう途中で滋賀県のある駅を通った。
しばらく居たことのあった場所だけど面影は無かった。

震災直後に行った神戸の街。

それにそれぞれの土地にある小さな店。

消えて行った多くのもの。

いつでも思い出は美しい。それは実際の事実とは違う幻想なのだろうか。
それにしても幻想の方が強いリアリティをもってしまうのは何故か。

例えば、昔見てこころに残っている映画をもう一度見る。
その作品は全く違うものにさえ思える時がある。

あったはずのものが無い。
あったはずの場面や情景。

映画でも小説でも音楽でも、こういうことがよくある。
そして僕達の人生の経験の中にも。

錯覚だと思えばそれで終わり。だから終わりにしていることは多いだろう。

でも僕はそんな経験こそが本当に近いものだと思う。

いつでも深い体験は原風景に触れてしまうのだと。
僕達はこころの奥に普遍的な世界を持っていて、
それは見えるものでも聴こえるものでもなく、匂いも形も無い。
それぞれの人生や経験はそこへ触れるための手がかりなのだと思う。
固有のものをを通してしか普遍へは至れない。

どこかに残された記憶が、何かのきっかけで甦ってくる。
生きているということは高度な推理小説を読むようなものかも知れない。

制作の場に立っていると、それぞれが持って来る風景や、
大胆にあるいはそっと出して来る数々のパーツがある。
その人自身にも未整理で何故今それを出してしまったのかすら分からない。
コントロールのきかないものの方が深い部分に関わるものだから。
一つ一つを拾って行くと、やっぱりその人の中で欠かせない何かなのだと分かるし、
無数の断片が深い部分や浅い部分に重なって、
その人を存在させ、動かしている掛け替えのないものなのだと感じる。

最後に見えて来るものは一つだ。
でもそれは言葉には出来ない。
そしてそれはそのものとして触れることは出来ない。
それぞれが自分だけの感覚と経験を通してそこへ至る。

だから全く私的な体験が他の人のこころの深いところへ届くことがある。

本当の意味で人と響き合おうとするなら、
たった一人になる勇気と、裸になって開いていく覚悟が必要だ。
それが出来た時、あ、それ見たことあるよ、一緒だね、という場所に行ける。

美しいもの儚く悲しいもの、沢山の景色。
僕らは恐れることなく、その一つ一つを味わいながら、
手をつないで歩いて行く。
全部見て行く。逃げないで。
そしてようやく、みんなが繋がる場所にたどりつく。
そこには何も無いがこれまで見た全てがある。
僕達はみんなで顔を見合わせる。微笑み合う。
もう何も言う必要はない。

これが共感というものの本質だ。

やっと思い出す。ここは初めて来た場所なのに本当はずっとここに居たのだと。
大丈夫。みんなここに居るよ。
色んなことがあったけど、もう全てが必要だったと気がつく。
良かったね。誰も何も欠けていないよ。もう安心だね。
みんな大好きだよ。みんな一緒だね。

工程を省略してそこへ行くことは出来ない。
だからどんなことでも受け止めて、精一杯生きて行くしかない。
向き合うしかない。

ややメルヘンチックに例えたが、制作の場とはこのようなプロセスだ。
だからこそ、場は人生だと言い切れる。

もっと上手く書ける日が来るかも知れない。
今日はこんなところで。

さて本番の現場です。

2015年6月19日金曜日

今月も

一日雨。
土、日クラスの準備。気候の変化と共に微調整。
紙の質が明らかに落ちて来ているので、絵具等でのバランスも考えた。

スタッフの都合上、今月はこの土、日まで佐久間で行かせていただきます。
それと来月は1、2週が関川君ゆきこさんで、3、4週が佐久間となります。
普段と逆になりますが宜しくお願いします。

共働学舎のドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を、
アトリエでもご紹介させて頂いていました。
ご覧下さった方々から多くの感想を頂きました。
ありがとうございます。
温かい場所で人の生きている素晴らしさを感じたとの言葉、
それに皆さんが佐久間の背景を感じたそうです。

共働学舎のこととなると他人事に思えず、ハラハラしていました。
まずはほっとしました。

何かが感じられる映像だったと思います。
そして、好評のため、まだ公開中だそうです。
引き続き、アトリエでも少しですがチケットを置きます。
ご興味のある方は制作終了時にお声をおかけ下さい。

とても良いと言って下さる方が多かったので、その次のことを言います。
あれは入り口に過ぎないと思っています。
少なくとも僕は。
入り口から入って、その奥に進んで行くと何があるのか。
僕自身は今のアトリエでそこを実践、証明して来たと実感しています。
今後も実践していこうと思います。

彼らの世界はもっともっと深いです。
その深く豊かなものを少しでも感じて頂ける場でありたいし、
そこから生まれた作品を通じて、彼らの凄さを知って頂きたいです。

最近、あからさまにエレマン・プレザンの真似をしている団体がいます。
人からも聞きます。
一言で言うなら上っ面です。果たして月日の経過に耐え得る活動なのか。
いづれにしても何かや誰かの仕事を引用する時は、
何処から借りて来たのか明らかにした上で敬意をはらうのが最低限のマナーだ。
そんなことすら出来ないのなら、その活動は根の無いものなので、
その内に消えて行くか、もしくは社会性の無いもので終わるだろう。
評価する人、受容する人の水準が低いので、
案外そういうものが残ってしまう場合もあるが。

これ以上は言わない。それで満足する人はそれで良いと思うから。
ただ作品が全てを語っている。
少なくとも、ダウン症の人達のセンスは、
僕達のアトリエで生まれているような質が基本であるはず。
はっきり言うなら、そのレベルのものが何処の団体を見ても出て来ていない。
何故なのか考えてみる必要がある。

作家に対しての尊敬心が感じられない、ということにつきる。

こんな世の中だから、今後こういった節操のない人が増えて行くのだろう。

制作の場で僕は答えたい。
これこそがこの人達の世界だということを。
そして、世の風潮に逆らってでも本当の仕事をしたいという真摯な方達に、
学べる場所を提供したいと思っている。
各現場で心ある人達は変わる準備が出来ている。
求めて来られる方達を見ていてそれを感じている。

諦めずに本当のものを見つけてもらいたい。

人が真に輝く瞬間がどれほど素晴らしいものなのか、経験してみて欲しい。

この瞬間に人と人が響き合って、奇跡のような何かが生まれる場面を見て欲しい。
より深く生きること、自分の全てを相手に差し出した時、
相手もまた同じように返して来る。
そこで繋がる関係こそが人の本来の在り方なのだと。

人のこころの奥にある創造性とは、調和へ向かうプロセスだ。
それは全ての人が持っているものだ。

僕達は制作の場で、次もその次も、命ある限り、証明し続けなければならない。
人はこんなにも優しくなれるし、こんなにも深く輝くことが出来るのだと。
みんなが居てくれることや、この瞬間があることが、
それだけで途轍もないことだということを。

明日も最高の時間が待っている。

2015年6月18日木曜日

意識していないもの

今日はもっと降るのかと思っていたが、この時間でもまだ静かだ。
何日か打ち合わせが続いていた。

志の高い方達と繋がっている。

夏にはフラボアでデザインされた商品と共に原画の展示も行われる。
また新たな希望に繋がる企画となるだろう。
詳細が決まりましたらお伝えしますね。

他の企画もいくつか同時に進行中です。

それから少し先になりますが今年も外で少しお話します。
こちらも日にちが決まり次第、お知らせします。

夏は研修の方を受け入れる。

様々な現場から学びたいとやって来る方が多い。

僕達のすべきことは変わらない。

自分の子供も含めて、子供達を見ていてもそうだけれど、
育児にしても教育にしても、もっと言うなら生きること全般がそうだけど、
人の表面、上っ面を見ていても駄目だ。
自分を見る時でもそれは言えること。

人間はいつからこんなに生命力を失ってしまったのか。
外の基準に頼らずに、自分の感覚を使って把握する力。
今起きている問題のほとんどは本能の力を失ったところから来ている。

人を見る立場に居る方達は本気で考えるべきだ。
特に教育に関わる方は。

人間の基礎を作らずに知識やテクニックを上から塗っても、
そんなものはメッキに過ぎない。
すぐに剥がれるし、むき出しになった芯は最初から作られていないから、
簡単に壊れてしまう。

まずは大人が何を大切にするのか見直すべきだ。
表面ばかり見ていて、元の部分を見ないなら、
その見方は子供の注意力を方向付ける。
表面しか見ようとしない人間が増えているのはそのせいだ。
表面しか見ないということは、お金や権力や成績や、
そういった数字になるものでしかものが見えなくなるということだ。
そうなれば世界は損得しかないということになり、
自分のことしか考えない人になる。
人を大切にするということを口にはするけれど、
ほとんどの人は家族や友達やもっと言うなら自分の分身か、
自分に利益のある人のことしか考えていない。

こういう認識は周りを見て身に付いてくるものだ。

人を見る時、大人であれ、子供であれ、その人の芯を見るべきだ。

何がその人を動かしているのか、背景に何があるのか。

制作を見守るときでも色や線を追っていても何も見えはしない。
絵をいくら見ていても、その絵を生み出しているこころが見えなければ、
創造性の輝きはくすんでいく。

意識しているようなことはその人間の10%にも充たない。
自分にも他人にも同じように、意識していない部分を見て行く必要がある。

どんなに絶望している人の中にも、
まだこんなのもある、と言うものは必ず見つかる。

若いうちに良い経験を積むことは、
それらを覚えて蓄積して行くためではない。
逆に無意識の部分、自覚されない部分をしっかりと満たして行くためだ。

沢山本を読みなさいと、教えられる。
でも沢山読むのは何のためか。
ここでも知識を集めるためではない。
元となる感覚や芯をつくって行くことが大切。

だから良いものに沢山触れて、全部忘れて行って良い。
そして人に良い影響を残したいのであれば、
その人の表面に触れるのではなく、背後で動かしている部分に語りかける。

僕らが制作の場で見ているのはお互いの素の部分。
表面で意識されているものの奥にある働き。
言い換えれば魂と言っても良い。

覚えて行く部分より忘れて行く部分により良い働きかけが必要だ。

誤摩化したり取り繕ったり、という卑しい振る舞いが何故生まれるのか、
といったら人も自分の表面だけしか見ないからだ。
逆に芯だけ見ているのであれば、誤摩化し自体が不可能となる。

大人でも子供でも愛情が栄養になっている。
愛していると伝えてはいても、それは上っ面を褒め合っているだけ。
それではいつまでも伝わりはしない。
その人を愛するということはその人の表面を見たところで駄目だ。
その人の自覚されない奥の奥まで見て、その部分に愛情を注ぐ必要がある。
そうでなければ、ただ自分が好きなだけだ。

もっと意識されない部分や分からない部分を大切にすること。
この世界に対しても人同士に対しても、
お互いがもっともっと神秘で、そして深いものであることを認識しよう。

見えているものより、見えていないものが、
意識しているものより、意識しないものが、より本質で大切であるということだ。

そんな自覚を持って人と接して行くと見えて来るものが沢山あるはず。

2015年6月15日月曜日

夏が来る

蒸暑い日が続く。

かなり良い2日間の現場だった。

これまでと違った作品も生まれた。

もう夏が来るだろう。

涼しい夜も今だけかな。

今週は外仕事が少し。

ぱっと見ただけなので細かいところは分からないけど、
貧しい子供に食事を与える場所をテレビで映していた。

子供達の表情を見ていると、食べ物以上に愛情に飢えている。
可哀想。本当に。

子供時代を思い出した。
自分のというより、子供の頃近くに居て同じような境遇にあった人達のこと。
あの人達が居たから今の自分が居るのだと思う。

こんなことを書くべきか分からないけど、友達とセミを食べたことだってある。

その後に出会った人達とのそれぞれの時代も忘れられない。
みんなのことが大好きだった。今でも。

小学校の時、必ず買わなきゃいけないリコーダーの注文用紙を捨てた。
持っていれば注文しないで良いというものだった。
僕にリコーダーをくれた女の子がいた。
1つか2つ上の子だった。
それまで本当に仲が良かったのに、
それ以来、気を使って何となく距離をとるようになってしまった。

子供の頃の方がそういうことに対して敏感で繊細な部分がある。
多分僕よりも、物をあげた彼女の方が罪悪感みたいな感情が残ってしまった。

夏が来る。
子供時代から十代後半にかけて、暑くて長い長い夏が一番好きな季節だった。

信州時代の夏の情景。
田んぼの蛙。澄んだ空気と夜空の星。

ラジオから聴こえるアルトンエリス。

今では春も良い、秋も冬も好きだ。
梅雨のしっとり雨も。この時期にはこの時期にしかないものがある。

掛け替えのない時の中で、人が大切にして来たやさしい気持ちを渡してくれる。
目の前に居る誰かのためだけに、思いを差し出す。

困難が大きいほど、そういった人の愛情を受け取る場面がある。

どれだけ助けられ、貰って来たことか。

その度にいつかこれを誰かのために使う、とこころに決めて来た。

場においてもそうだけど、良いものの全ては、来てくれたもの、
あるいは貸してもらっているものだと思っている。
返すことで、より大きな繋がりが生まれる。

ほんの一時であれ、その人と出会えていることが奇跡にも似たことであること、
そこで一緒に響き合って、お互いに何かを残せる幸せ。

今、目の前にある人や世界を、愛情と敬意をもって迎えること。

夏が来る。またいつものように。
そして2度とない今だけの季節として。

2015年6月12日金曜日

場からのメッセージ

昨日は深夜まで曇りで、遅くなって来てから雨が降り出した。
それまで風の変化が何層にも。
空気が変わる場面もあった。夜は感覚が敏感になる。

言葉は悪いが雑用のような仕事が沢山あって、
これだけで時間が過ぎてしまいたくないなあ、と感じていた。
そんな中、ちょっと本気になれそうなお仕事の依頼も入って来ている。
制作の場の質を外で、と言うのは難しいことだ。

場から学んで来たことを書いたり、しゃべったりしている。
場には表面的な美しさや素晴らしさが、無論ある。
それは初めて見た人でも感じられるものだ。
誰に対しても開かれていると言える。
ただ、もっと奥があって、それはもう見ても良いよ、という許しを貰わなければ、
見ることが出来ないようなものだ。
よし、そろそろいいよ、と場が言ってくれて、見せてもらえる。

ここに立ってごらん、ここからほら、見てみな、と。

そうやって認識も知覚も生き方も、生きる世界も変わって行く。

今、自分が見ている世界とは、それがどんなものであれ、
場が見せてくれているものだと僕は感じている。

ずいぶん、遠くまで来てしまったという自覚もある。
ある意味で確かなものはもう何処にもない。
全ては無限のように変化の過程にある。

場が連れ来てくれた場所から、自分の人生を見るという視線が自然に身に付く。
全ては夢のようだ。そしていつでも同じ場所から眺めている。

装わない者だけ、逃げない者だけ、誤摩化さない者だけ、
場は通してくれる。
捨てて、裸になって、素にならなければ、この道は通れない。

この世において、絶望が深い人、全てを失っているような人、
ある意味で極限のようなところにいる人、
そういう人達ほど、場においては豊かであることが多い。
まるで世の中とは逆のような光景をよく見る。
それが何故なのか、僕には分かる。

いずれにしても裸になって場に抱かれるのは救いと言って良い。

だからこれもよくいうことだけど、
こんなに持っているよ、とかどう凄いでしょ、とか、
これがわたし、とかそういう見せようという意識が、
どれほどその人を濁らせてしまっているのか、
単純に言うならつまらなくしてしまっているのか。

評価や、出来る出来ないだけで人を見る社会に慣らされてしまって、
それが癖になっているのだから仕方ないが。
テストされて来た人間はやがて人をテストするようになる。
その連鎖が社会と人間関係をつくっている。

場が言っていることは、すべての存在はただ無限の中で、
ある場所が与えられている、ということ。
自分を小さくしなければ、自分の居るべき場所が見えない。
持てば持つほど、装えば装うほど、構えれば構えるほど、
本来の場所から遠ざかる。尊厳を失う。
尊厳は素の状態にあるから。

場が教えてくれるもう一つのこと。
全ての瞬間が奇跡であり、掛け替えのないものであるということ。

大切に丁寧に生きること。

何度か書いたことだけど、有り難かった感覚の変化として、
これまで経験して来た場がいくつもいくつも重なって行って、
今の場になって行く感覚がある。
最近はまたちょっと変わってきた。
強く実感するのは、折り重なる無限の感覚と同時に、
これまでの一つ一つの場での時間は、確かに今もここにあって、
一つ一つが別の命を持って生きているということだ。

それは場でのことだけではなく、
人生での経験もすべて含まれる。

過去は決して消えるものではない。もしかしたら過去など存在しない。
こんなにもはっきりとそれぞれの時間が今も生きているのだから。

この世から本当にたくさんの人が居なくなってしまった。
恩師も友も。
それでも追悼のような文章を読んでいて違和感を持つ自分が居る。
みんなここに居るのに、と。
何故だろう、確かに居るし、生きていた頃と全く変わっていない。
だから生も死もますます分からなくなって行く。
何処までが生なのか、どこからが死なのか。

かつて存在した全ての時間は、今も生きている。
それは場が確かに示している認識の一つだ。

科学が何と言おうが、理屈がどうであろうが、
強い実感を否定することが出来ない。

場において鳥や草木と対話出来ることや、
偶然と遊べることや、過去も未来も、そこにない情景も取り込むことが出来ること、
それをどう見たら良いのか。
理屈で説明出来るはずがない。
それでもそこに居る人達は、少なくともその瞬間は確信を持っている。
いやもっと自然に当たり前に受け入れている。

今日はこの辺にしておきましょう。
明日はまた制作の場に入ります。

みんなが帰って来る。楽しみ。

2015年6月10日水曜日

暑い日

東京は梅雨入り。

夕方以降の涼しくなった時間が何とも言えない。
気持ち良くもあり、静かでもあり、寂しくもある。
昨日の幻のような空の色。

赤く輝きながらゆるやかに変化して行く空は、
白い紙に色が重ねられて行く時に見えている景色のようだった。

人のことは言うまい、と思う。
外のことは放っておいて、黙々と良い形を創って行けば良いのだ、と。
でもつい言いたくもなる。
くだらない活動は害を及ぼすから。
あまりにも節操がなさすぎる。
遊びで何をしていても法にさえ触れなければ良いと思う。
でも、人に関わること、少なからず人に影響を与える何かをするなら、
責任と自覚を持って、そしてプロとしての技術を持って行うべきだ。
自分に資格があるのかどうかも、問うてみるべきだ。

まあ、人のことばかりも言ってはいられない。
何となくとか、これまでそうして来たから、というのは僕には動機にならない。
このブログにおいても何を書くべきなのか、
今、何を伝えるべきなのか、もう一度確認して行かなければならない。
惰性は最も恐れるところだ。

僕にとって現場が全てで、そこで何が出来るのかにつきる。

ここでの言葉が単に場を薄めただけのものなら、書く意味はないはずだ。

このブログがあるから繋がっている人も居るし、
これを通じて出会えた人も居る。

場と同じように、少しでも見方や認識に変化が起きるような言葉を見つけたい。

場と同じように、いつでも命を、魂を投げ出す覚悟で。
最も大切なものを差し出す、ということが必要なのだろう。

場においては、思ってもみなかったものが姿を表すこともある。
そんな深い場面まで、言葉が行くことが出来るのなら、いつかは、と思う。

どんな方向に向かって行くのか、まだ模索中だ。
でも、言えることは、生きているということはやっぱり素晴らしいこと。
制作の場とはその認識を全身で噛み締めることだ、と思っている。

2015年6月8日月曜日

描く

土、日曜日、まずはしっかりした良い場になった。

昨日の午前の制作でのこと。
一人の作家がかなり深く集中していた。
柔らかい陽射しで、とても静かな時間。
こころが直に動いている場面。

やさしく時が刻まれて行く。
自然な流れでこのまま最後まで行くのだろうな、と感じていた。
その瞬間、本当に何の違和感もなくふっと筆の振りが変化した。

おやっと思う。
あくまで軽くゆっくりした動きなのだけど、
これまでよりは振りも大きくて、そして勢いがありながら、
全く力が入っていない。

2振りくらいしたところで、僕は外を見た。
風が動いた。葉っぱが揺れる。
風の動きは穏やかで、はっきりと見ることが出来るようだ。

筆の動きと風の動きは、交互に対話するように、お互いをなぞっていく。

時間にすると2、3分。いや、おそらくもっと短いだろう。

始まった時と同じように自然に、風が止み、そして筆の動きも止まった。

制作はまだ続いていたので、彼女は違う呼吸に合わせて変化していた。


2015年6月6日土曜日

生かされている実感

昨日は大雨だった。
今日は涼しく、ちょっと過ごしやすいだろうか。

今月も制作が始まる。

一回一回の場が掛け替えのないものだ。

いつも現場について書くと、もっと違うなあと思う。
仕方なく、反対のこと、矛盾することをまた言わなければならなくなる。

場と言うものは計り知れない。
一人一人のこころの中が無限であるように。

場を通して見てきたし、理解して来たし、
もっと言うなら僕自身は、場を通して生きて来た。

数々の場が自分を創り、動かしている。

必要条件である腕も感度も落ちてしまったけど、
数々の場が今ほど自分を生かしてくれている時期はない。

場において、自分と言うものは通過点でしかない。
それよりも向うから来るもの、動くものが重要で、
全てはどこかから、誰かから、何かからやって来るもの。
作家もスタッフも実はここではどれだけ受け身で居られるかが大切だ。

この世から居なくなった人達や、
もうこの人生において会うことのない人、
もう消えてしまった場、無数の過去、
それらがこんなに近くに居てくれる。
過去は過去ではなく、ここで隣に居る。

生かされているという感覚は、自分以外のものが自分を通過して行く感覚だ。
僕はこれを場において学んだ。

最近実感しているのは、この感覚が日に日に強くなって行くことだ。

場と言う無限は僕達を素直にさせる。
そして生きているのではなく、生かされているのだと気づかせてくれる。

今日もみんなが幸せを感じるな時間になりますように。

2015年6月5日金曜日

創造性の律動を聴く

しばらく更新が出来なくてごめんなさい。
暑いですね。

さて、東京です。
今月も来客の予定が続きます。

制作の場に立てることはやっぱり嬉しい。

三重でも色んなことがあった。
気まぐれ商店のポーチづくりの場、ミシンの会が毎週行われている。
とても良い雰囲気。

家族のこと、色々変わって行くところ、考えなければならないこと。

このプロジェクトだけでなく今の社会に向かって行くことは、
相変わらず困難の連続でもある。

出来得る最善を実行して行く以外にない。

音楽を聴かない日々に、グレングールドのバッハクラヴィーアコンチェルトが、
くりかえし、くりかえし頭を駆け巡った。
特に若かりし頃の演奏。
ただただ、奇麗に正確に配置された音達。
無限の反復のような、あるいは運命のような。
音はスピードにのって消えて行く。

制作の場で見て来た無数の景色。
匂いや音や感触。
こころの奥で鳴り響く音楽。
人生で経験して来たたくさんのもの。

立ち現れ、消えて行く。
くりかえし、くりかえし。

僕達が制作の場で、奥へ奥へと向かって行くのは、
それが正しいからでも、目的があるからでもない。
ただただ、生命の律動がそうさせるだけだ。

一度でも場の声を聴いたら、鳴り響くリズムに浸ったら、
忘れられないだろう。

創造性とは生命が形をなして行くリズムのようなものだ。

生命や宇宙や、全ての背景で動いているもの。
その仕組み、法則の前に、僕達は小さくなって素のまま立つべきだ。

絵を描いて、作品が仕上がる。それが制作の場だと思っている人がいる。

僕のいう場とはそんなものではない。
一人一人が素直になって、自分の本質に帰ること。
身につけた嫌らしさ汚さを一時捨てること。
捨てて捨てて、削ぎ落としてまっさらな素になり、透明になること。
その時、この世界は本来の輝きを見せてくれる。
目の前にある世界が裸で迫って来る。

この世界を形にしている創造性と、人間の内側にある創造性とは、
本来は同じものだ。

グールドのリズム。
反復されるすべての音が、必要な場所に刻まれている。
僕達はあの音楽のような世界に生きている。

生命体の根本に流れる音楽を聴こう。
場に入る。深く進むことは、そのような音楽を自身の内側に聴くこと。


書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。