2015年6月12日金曜日

場からのメッセージ

昨日は深夜まで曇りで、遅くなって来てから雨が降り出した。
それまで風の変化が何層にも。
空気が変わる場面もあった。夜は感覚が敏感になる。

言葉は悪いが雑用のような仕事が沢山あって、
これだけで時間が過ぎてしまいたくないなあ、と感じていた。
そんな中、ちょっと本気になれそうなお仕事の依頼も入って来ている。
制作の場の質を外で、と言うのは難しいことだ。

場から学んで来たことを書いたり、しゃべったりしている。
場には表面的な美しさや素晴らしさが、無論ある。
それは初めて見た人でも感じられるものだ。
誰に対しても開かれていると言える。
ただ、もっと奥があって、それはもう見ても良いよ、という許しを貰わなければ、
見ることが出来ないようなものだ。
よし、そろそろいいよ、と場が言ってくれて、見せてもらえる。

ここに立ってごらん、ここからほら、見てみな、と。

そうやって認識も知覚も生き方も、生きる世界も変わって行く。

今、自分が見ている世界とは、それがどんなものであれ、
場が見せてくれているものだと僕は感じている。

ずいぶん、遠くまで来てしまったという自覚もある。
ある意味で確かなものはもう何処にもない。
全ては無限のように変化の過程にある。

場が連れ来てくれた場所から、自分の人生を見るという視線が自然に身に付く。
全ては夢のようだ。そしていつでも同じ場所から眺めている。

装わない者だけ、逃げない者だけ、誤摩化さない者だけ、
場は通してくれる。
捨てて、裸になって、素にならなければ、この道は通れない。

この世において、絶望が深い人、全てを失っているような人、
ある意味で極限のようなところにいる人、
そういう人達ほど、場においては豊かであることが多い。
まるで世の中とは逆のような光景をよく見る。
それが何故なのか、僕には分かる。

いずれにしても裸になって場に抱かれるのは救いと言って良い。

だからこれもよくいうことだけど、
こんなに持っているよ、とかどう凄いでしょ、とか、
これがわたし、とかそういう見せようという意識が、
どれほどその人を濁らせてしまっているのか、
単純に言うならつまらなくしてしまっているのか。

評価や、出来る出来ないだけで人を見る社会に慣らされてしまって、
それが癖になっているのだから仕方ないが。
テストされて来た人間はやがて人をテストするようになる。
その連鎖が社会と人間関係をつくっている。

場が言っていることは、すべての存在はただ無限の中で、
ある場所が与えられている、ということ。
自分を小さくしなければ、自分の居るべき場所が見えない。
持てば持つほど、装えば装うほど、構えれば構えるほど、
本来の場所から遠ざかる。尊厳を失う。
尊厳は素の状態にあるから。

場が教えてくれるもう一つのこと。
全ての瞬間が奇跡であり、掛け替えのないものであるということ。

大切に丁寧に生きること。

何度か書いたことだけど、有り難かった感覚の変化として、
これまで経験して来た場がいくつもいくつも重なって行って、
今の場になって行く感覚がある。
最近はまたちょっと変わってきた。
強く実感するのは、折り重なる無限の感覚と同時に、
これまでの一つ一つの場での時間は、確かに今もここにあって、
一つ一つが別の命を持って生きているということだ。

それは場でのことだけではなく、
人生での経験もすべて含まれる。

過去は決して消えるものではない。もしかしたら過去など存在しない。
こんなにもはっきりとそれぞれの時間が今も生きているのだから。

この世から本当にたくさんの人が居なくなってしまった。
恩師も友も。
それでも追悼のような文章を読んでいて違和感を持つ自分が居る。
みんなここに居るのに、と。
何故だろう、確かに居るし、生きていた頃と全く変わっていない。
だから生も死もますます分からなくなって行く。
何処までが生なのか、どこからが死なのか。

かつて存在した全ての時間は、今も生きている。
それは場が確かに示している認識の一つだ。

科学が何と言おうが、理屈がどうであろうが、
強い実感を否定することが出来ない。

場において鳥や草木と対話出来ることや、
偶然と遊べることや、過去も未来も、そこにない情景も取り込むことが出来ること、
それをどう見たら良いのか。
理屈で説明出来るはずがない。
それでもそこに居る人達は、少なくともその瞬間は確信を持っている。
いやもっと自然に当たり前に受け入れている。

今日はこの辺にしておきましょう。
明日はまた制作の場に入ります。

みんなが帰って来る。楽しみ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。