2015年7月14日火曜日

見張塔からずっと

暑い、暑い。
夜も朝も。

今日は大事な打ち合わせがある。

ボブディランの古いCD。
誰かがくれたもの。

音楽を聴いていると、ふと思う。
こんなにも何もかもが過ぎ去って行って、
そして多くの人がもうこの世から消えているのに、
何一つ変わらないような感覚は何だろう。

初めて場に立ったその時から、
あれからずっとずっと同じことをして来た。
目の前に広がる光景に目を見開いて、ワクワクしながら素直に喜んでいたころ。

目上の人達からずいぶん可愛がられた。

やがて生意気になり、自分なりに見つけた答えに固執した時期。
仕事勘が冴え渡って何をしても的に的中し、
何処を突いても簡単につぼを捉えられた。
ちょっと本気で仕事すれば、見ている人達はすぐにうっとりした。
チヤホヤしてくれる女性達に囲まれ、誰からも非難されず、
言いたいことを言って、やりたいことをやって。
外から見たら調子に乗っているように見えたかもしれない。
でもあの頃が一番孤独だった。
歩みが止まっていることに気がついていたし。
身動きが取れない息苦しさを感じていた。

いくつもの夏。

全てはただただ過ぎ去って行くためにあるのだろうか。

昨日電車の中でランドセルを背負った小学生のいじめを見た。
お互いの力を試し、確認する時期が必ずある。
でも、そのいじめはそのようなものではなく、陰湿でひねくれたものだった。
人間の汚さを表すような。
「やめろ。やりすぎだ。」と注意したが、不快感が残る。
大人の世界そのものだから。

社会のこと、政治のこと、震災以後に起きていること、
意識的に発言しないようにして来た。
仕事を通してしか何も出来ないと分かっているから。
多くの虚しい言葉が飛び交っているから。

でも言って行かなければならないことはある。

子供達のことを考えなければならない。

あえてこの言葉を使うが戦わなければならない場面はある。
守らなければならないものがあるはずだ。

命に関わること、放射能のことを無かったことにしたり、
じわじわとしかし強引に戦争を肯定する方向へ向かったり。
そんなことを放置して良いのか。

外の世界のことでも、自分の内側のことでも、
向き合わない、逃げるということが一番恐ろしいことであり、卑怯なことだ。

僕達は制作の場において命と向き合う。
命とは響くもの。
この響きを聴いたことが無い人間は争う。
人間がどれほどの存在か知らないからだ。

醜いもの汚いものから目を背けない。
そこに向き合って真っすぐに進む。
もっともっと奥に光り輝くものがあるのだから。

きれいごとを言うつもりは無い。
実際に一つ一つの現場でそれを証明し続けるのみ。

僕達はずっとそうして来たし、これからもそうして行く。

そんなもの信じない、と多くの人が言った。
出来る訳が無い、と。
自分の幸せだけ考えれば良いのだと。
そう思う人はそう思えば良い。今でもそう思っている。

僕達は出来ることを知っている。
人間がこころの奥に持っているもの。
命の、魂の、輝き。

悔しい思いもいっぱいして来たし、挫折したまま居なくなった多くの人を知っている。
僕に託してくれた人達も居た。
沢山の涙と笑顔と、儚い想いも。
全部受けて、持って来た。

今言えることがあると思っている。
あったでしょ、やっぱり。
こんなに素晴らしい世界が広がっていて、
こんなに美しい風景を見ることが出来る。

ちょっと思っていたこともあるけれど、
ざまあみろとはおもう思わない。
でも勿体ないよ、と思う。
行けるのに。
人として生まれて、その可能性を充分使ってから死んで行こうよ、と。

僕達は同じ景色を前にしている。
一緒に見に行こうね、と思ってくれる多くの人達と歩んで行く。

照りつける陽射し。強い風。青空。
暑い、暑い。夏。

あ、今日のテーマに使った言葉は以前にも使った気がする。
でもいいか。たぶんこのフレーズが好きなのだ。

そろそろ花火やビーチを描く人がいるだろうか。
良い夏にしましょう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。