2015年7月16日木曜日

絶望しないこと

今日も暑い暑い一日だった。

直接的な表現は避けて来たし、
何かに賛成とか反対ということの意味の無さも知っている。
でも声をあげなければならない時がある。
黙っていてはいけない場面がある。

安保法案が強行で可決された。
今何が起きているのか、目を見開いていなければならない。

単純な一つのことしか言えない。
どんなことがあろうと戦争を拒否しよう。
子供達に触れさせてはならない。見せてはならない。
断固として争うことを拒絶する態度を教えて行くべきだ。

この不穏な空気の中で何が出来るのか。
無力ばかりが実感されるが、それでも諦めてはならない。

増々、人間の根源にあるものが求められる。
本当のものに触る経験が求められる。

制作の場は魂の居場所とならなければならない。

台風が近づいている。

昨日はデザイナーの佐々木春樹さんとフラボアの方達と打ち合わせ。
8月にフラボアの店頭での作品展示を予定している。
商品のデザインと同時に見て頂くので、
作品の選定と展示はデザイナーの視点で行って頂く。
佐々木さんにお任せしたが、作品を深く見る目と信頼出来るセンスの方だ。

僕にとってもお話ししていて響き合える人だ。
言葉を介さないで通じ合える稀な人。
希望に満ちた企画になるだろう。

今日はプレにあきこさんが来てくれた。
一年ぶりの再会。
春にも日本に帰って来た際に会えなかったけれど、連絡してもらっていた。
この場を、みんなのことを、忘れないでずっと大事にしてくれている。
去年の展示にも来てくれた。
くりちゃんもそうだけど、こういう仲間達がここには集まっている。
みんなの思いが一つの場となっていることを忘れてはいけない。

プレが終わった後、イサと少し話していて大事な大事な話になった。
かなり深いところに触れていて、何かに語らせられるかのようだった。

たった一つの情景が人を救うことがある。

僕達はこの世界の中で何か少しでもそういうものを見つけて行って、
人と分かち合って行きたい。
その場に居る人とは本当に奇跡のように出会っているのだから。

場と言うものを知っていたから、いや教えられ、導かれ、
見せてもらって来ていたから、だから希望を失わずに来られた。
世界は一つではないと知っているし、
過去は今でもここにあることも、死んだ人やいなくなった人が、
決して消えること無く存在し、語りかけてくれることも、
同時にたくさんの場所に自分がいて、自分が決して自分ではないことも、
全部、場が教えてくれたことだった。
沢山の声が僕に語りかけ、向かう方向を示して行く。
一緒に居る人、いた人は僕自身でもあるし、
むしろその人達が僕の身体や声を使って動いていることも知っている。

普段、見えないこと見ようとしないことが、
場の中では見えて来るとこと。
そのために耳を澄ましていなければならないこと。

この世において決して報われることが無かった人達を知っている。
絶望以外に無かった人達、今もなおその状況にいる人達。
僕達の関わるという仕事では手も足も出ないような場面。

何も出来ない現実。

そこで希望を失わずに一緒に居続けることが出来るのは、
もっと深い何かが存在していることを知っているからだ。
あえてこういう言葉を使えば、魂のレベルにおいてはどんな人も救われているから。
そこから見ることが出来れば、あるいはほんの一瞬であっても、
そのことに気がつくことが出来たなら、生きていることの価値が輝く。

もし浅いレベルでだけ世界を捉えるなら、
救われない人は沢山居る。
世界は不平等で不条理にみちている。
でももっと深く見て行ければ、そういうところまで掘り下げられれば、
僕達は決して絶望する必要は無い。
幸も不幸も、どんなものであれ、ある意味で全ては仮の姿に過ぎない。
仮りのもの。こころも身体も世界も。
正体はもっと違う姿をしている。
本質とか根源と僕が言うのは、目の前に現れている仮のものを通して、
その奥にある形をなさない存在を意味している。

人間も世界も、何かもっと凄いものだということが出来る。

成瀬巳喜男監督のたしか「流れる」という作品だったか。
その映画の中で様々な場面で背景から、どこか遠くで鳴り響く音のように、
ドーン、という太鼓の音が聴こえて来る。
その音が聴こえて来る度に何か不思議な遠い気分になる。
あの音は、あれはいったい何なのだろう。
あれは人生の瞬間瞬間に垣間見える生命の深淵なのではないか。

僕達の世界や命の背景には普段気がつかない、何か途方も無いものがある。
それは時にドーン、と聴こえて来る。

それはただただ、どーん、となるばかりで、それ以上言葉にはならない。
僕達が何か意味付けしようとしても捉えられないし、
決して自分のものにはならない。
あのどーんを聴く心地良さは、何も分からない、という感覚の懐かしさにある。

制作の場の中で、最も大切な瞬間はあの音を聴くことかもしれない。
そのとき、僕達は同じ音を聴いていて、放心したように、
あの懐かしい感覚に身を委ねている。
世界も、この自分も、誰ものでもないこと、
把握したりコントロールしたり理解出来るものではないということを。
僕達は我を忘れて、謙虚に身を委ねているだけ。
何か大いなるものが場全体を包んでいる。

命はかけがえがない。
大切にここに居よう。いつでもみんなと一緒だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。