2015年9月21日月曜日

しばらく場をスタッフに委ねます。

すっかり秋で夜も長くなった。

この土、日曜日は本当に本当に素晴らしい時間だった。
制作の場とは汲めども尽きない無尽蔵なものだと思う。

場から離れる時間がどんどん増えて来た。

だから入れる時は精一杯挑んで、次の時間に繋げて行くし、
ズレが出ているところは修正して行く。

それと同時に違う繋がり方も必要だと思う。

まあ、場を共有して来た人達とは深い部分で繋がっている。

世の中の流れはとんでもないところへ来ている。
子供達の将来に何が出来るのか。

これまでのことでも、最善の方法を日々選択して、努力も続けて来たが、
出来なかったことの方がはるかに多い。

大きな流れに逆らうことは出来ないのか、と無力感を感じることもある。
でも、諦めることはこれからもないだろう。
今出来ることはやって行かなければ。

ブログも暫くお休みします。
また11月に書く予定です。

場でいつでも共有しているように、
どんな時も想い合って行きましょう。
僕達はいつでも一緒。

一人の人間に出来ることには限界がある。
身体的にも能力的にも、時間的にも空間的にも。
誰かだけに、頼らないように、みんなで力を合わせて行こう。

場のことを片時も忘れない。
響き合う時間を。一人一人の笑顔を。
美の連鎖を。個人を超えた計り知れない仕組みの素晴らしさを。

この2日で生まれた作品だけ見ても凄まじいものがある。
作品が示す生命の仕組み。この大自然、大宇宙の摂理。
美の原理。
それは一人一人が無駄なものを捨てて裸になって、
謙虚に向き合った時、動くものであり、
自分ではなく、目の前の人に対して、
全てを差し出した時に、響き合うリズムがある。
そのとき、世界は本当の姿を見せる。

僕達はただ、何も考えないで従っていれば良い。

さて、この先どうなるのか、分からないけれど、命ある限り、
みんなと可能性を切り開いて行こうと思う。

一緒に前をむいて少しでも良くするために、歩み続けましょう。

2015年9月19日土曜日

光の戯れとしての世界

晴れました。

昨日までの天気が一転。これが秋ですね。

土、日曜日の制作です。

10月は三重で過ごさせて頂きます。

こころをこめて、場に挑んで行きたいと思います。

昨日、東京都美術館に伺いました。
キュッパのびじゅつかんは、一年前に楽園展を行っていた同じ場所。
テーマも近いと思います。
目の前の世界を新鮮に捉え直す。
その眼差し。世界との対話。
驚きと遊びと、広い広い世界に感覚と知覚を開いて向き合う。
そんなテーマが共通しているかな、と思います。

モネ展の内覧会。
これは是非ご覧頂きたいです。
何処までも色彩が溢れ出して、この世界が沢山の光が戯れ合う、
全てが渾然一体となった情景として迫って来た。
モネが見ていたのは何だったのか。
色と色の境界は消え入るギリギリのところにあって、
物の輪郭もほとんど消えて行く。
白内障になって視力を失って行く時期の作品を見ていると、
見えるって何なのか、と思う。
確実にモネの方が見えているのだから。
世界は色であり、色とは色彩とは光に他ならないのだ、と。
世界は光の戯れで、それが無限に連鎖して行くのだ、
と言うところまで見えていたモネの凄さ。

そしてやっぱり確信するのだが、
これはダウン症の人達の描く世界と共通している。

重なってくるのは当然で究極のところにある何かなのだから。

外へ出ても世界は色彩に満ちていた。
ある時期に外を歩いていて風景全体がしんじの絵のように見えたが、
描かれる世界とはこころの深くにあるものであると同時に、
この世界の本当の姿なのだ、ということ。

今日もそんな制作の場へと向かいます。

2015年9月16日水曜日

金木犀

夕方から静かに雨が降っている。
みんな疲れは出ているからゆったりと過ごしたい。
今日は静寂な一日。

外へ出るともう金木犀の香り。

今年になってから亡くなった人達が頭を過ったり。
アトリエで音楽をかけていたけど、歌がやっぱり響いて来る。

写真家の中平卓馬さんも亡くなった。
イサ達がお世話になった。
アトリエにも一度来てくれたことを思い出す。
初対面の時、扉を開けるなり
「こんなところにあったのかあ。おれ、ずっとさがしてたんだよ」
と言ったこと。
その言葉はこのアトリエの場がどんなものなのかを感じさせる。

誰しもにとってそんな場でありたいと思う。

綾戸智絵の歌にぐっと来て、何か救われるような感じがあった。
人に希望と勇気を与えるもの。
何か救いのようなものを、肯定を、
生きていること、世界とか人間を、やっぱり良いな、と思わせてくれるもの。
そういうものしか美とは呼べないと思うし、
そういう感動を与えられるもののみ仕事と言える。

僕達の現場とは、中へ深く入った時、誰もが肯定される瞬間を目指すもの。

以前このブログを読んで下さった方からメールを頂いた。
深いところから、人間はみんなどこかで救われている、
大丈夫なんだ、と思えて涙が溢れてきた、と。
困難で辛い現状の中でも精一杯大切に生きて来られた方なのだろう。

場の中でもそうだけど、そういう視点が少しでも、
人の中に入って、ちょっとでも余裕が生まれたり、
楽になったり、ほんの少しでも、
こころの中でそんな場所があることを感じて貰えたら、どんなに嬉しいことか。

いつも一緒に居て、作家の中でも特に透明感の強い人は、
ふわっと浮いているような感覚で、その言葉は一体何処から来たのだろう、
と思うようなことを言ったりする。
その瞬間、ふっと場自体が軽くなって、宇宙に漂っているような感覚になる。

絵の中での景色が全て上の方から眺められた構図になっている作家もいる。
それから、地球をやっぱり上から見た感じに描いている作家もいる。

場に立っていて、みんなと一緒にふっと、そんな場所に居ることがある。

とても柔らかくて、すーっと透明で、何処までも軽い。
この世で起きていることは全部、仮の姿で、この場から見えるように、
僕達はみんな守られている、みんな、どんなこともそのままで良いのだ、
と、そんな風に思えたり見えたりする瞬間。

実際の僕達が生きている世界では、やっぱり辛いことの連続だし、
本当にままならないけど、
そんな中でちょっとでもその景色を思い出すことが出来たら、
感じることが出来たら。
全てが良い悪いだけで決められた世界に生きていて、
全部どちらの要素もあるよ、本当には否定出来るものは一つもないかも知れない、
と思えれば、もっと争いは減って行くだろう。
もっと人に優しくなれるだろう。

深いところで見えてくる世界で、例えひと時であっても、
僕達は知ることが出来る。見ることが出来る。
本当にみんなが居る場所があって、全部があって、
何一つ否定されないで、そこはずっとずっとあるのだと。

この人生の中でそんな風に感じられる瞬間をどれだけ増やすことが出来るか。

場はその人の中に生き続ける。

このブログでもそんな景色を少しでも感じて頂ければ、と思う。

2015年9月15日火曜日

遥か彼方

空もずいぶん高くなった。
夏は遠く行ってしまった。
夕方から聴こえてくる虫の音。
透明な光。

信州に居た頃はよく、田んぼのあぜ道から夕日を見た。

怒濤のごとく過ぎ去った日々。

平日のクラスでは、この時期は割と静かに過ごしていて、
みんなの穏やかな表情が掛け替えのない時間を写す。

作家達の生きている世界では、今と言うものが全身で感じられている。
そんな風に僕らも生きてみること。

今と言う時間を、そこで起きていることを、
しっかりと、そして深く、よーく見て行こう。

いずれ全ては過ぎ去る。
去って行った時にしか見えて来ないものがあり、
むしろそちらの方が大きいことを知っているから。

皮膚がヒリヒリと痛みを感じるような、
そんな切実な実感の中で生きていたい。
例え傷つき、疲れ、失望しようと。
絶望しないために希望を抱かないのは、つまらないこと。
別れの切なさから出会いを避けるなんて、それでは何故ここに居るのだろう。

深く深く向き合う程、喜びも悲しみも大きくなるものだ。

どんなものであれ、そこにあるものを愛して、よく見る。生きる。

僕達はずっと途上にいて、あるもの全てが仮のもので、
今こんな風に掛け替えのない輝きの中にいるのだから。
そしてそれら全ては消えて行った時に本当に生きてくるのだから。

大切なものが目の前にあり、それを噛み締めて、その流れの中に深くあること。

僕らは制作の場と時間の中でそんなことを学んで来た。

最も透明になる瞬間、場はこの世の全てを見せてくれる。
自分から離れて、全てが見渡せる場所に立たせてくれる。
遥か彼方からこの世界を見つめる視線。

そこから見たとき、これまでよく見て、よく生きた現実は全て今でも輝いている。

そこから見た時、存在する全てが透明に輝く。
どの時間もどの空間も、あらゆる場所と瞬間がその場に同時にあり、
同時に動いている。

僕達はみんな今ここにいて、この世界を生きていると同時に、
遥か彼方に立っている。

だから、辛いことも悲しいことも含めて、
深く向き合って深く生きて行こう。
決して明るくないこの現実の中で、それでも目を背けず、
何が起きているのかよく見ていよう。

自分のいる場所とそこに居てくれる人達を大切にしよう。
一度しかない時間の中に居るのだから。

2015年9月14日月曜日

いつまでも輝く昨日の場に

曇り空。涼しい。

昨日のアトリエは本当に素晴らしかった。
時々、あんな風になるから場は不思議だ。
神秘とか奇跡と言って良い場面がある。

場はその一回が全てという側面は確かにある。
その自覚が必要だ。
でも、もう一つ忘れてはならないことに、蓄積されて行く要素。
これは良いものも悪いものも残って行くので、
後のことがある程度見えていなければならない。

結論から言うなら全てのプロセスが正確であること。

仕事は韻を踏み続ける。それに尽きる。

全身全霊で注いで行く、ひと時も疎かにしない。
日々続けて行ければ、場は確実にあの日曜日のような場面を見せてくれる。

条件としては、体調的にもみんな疲れていたし、難しい現場のはずだった。
でも、感触はすでに違っていて、何か来るぞ、という勘があって、
それはだんだん大きくなった。
来ている、確実に来ている。
グングンと深みに入り込んで行く。
凄まじいエネルギーと集中。

作品は当たり前に純度の高いものばかり。
しんじが特に良かったが、これは彼が一人で描いたものではない。
僕らにとってそれは当然のこと。
しゅうちゃんが前で何度も何度も場を引き出していたし、
さとちゃん、だいすけ、みんなが高いところで響き合っていた。

こういう時には本当に彼らの10年を超える関係の深さを思う。
それを言葉にするのでは無く伝えられる豊かさ。

生きている醍醐味の全てがそこにあった。

場と言うのはやっぱり途轍もない何かだ。

そこに、その人が居るということの凄さを、本当に深く経験し生きること。

あまり多くは語れない。
またあのような場面がやって来るだろう。
韻を踏み続ける。正確に刻む。ひと時も疎かにしない。
どんな時でも、それを続けて行くこと。
そうすれば、またあの場所へ行けるだろう。

日曜日の朝早くにラジオを聴いて下さった方々、
本当に有り難う御座いました。
ディレクターの方は深い共感を示して下さったし、
熱意のある素晴らしい方でした。
ナビゲーターの平井理央さんの気配りの素晴らしさ、
プロとしての仕事のお陰で、時間をあまり意識せずに話すことが出来ました。
深く感謝しています。

体調を崩している人も多いです。
無理をしないで、身体にお気をつけてお過ごし下さい。
今日も良い一日になりますように。

2015年9月12日土曜日

地震

朝、かなり揺れました。

本日のアトリエは平常通り行う予定です。
これから準備に入ります。

交通状況もご確認の上、くれぐれもお気をつけてお越し下さいませ。


2015年9月11日金曜日

場を想う時間

秋なので忙しい時期でもあり、10月は東京に居られないこともあって、
いろいろ整理すべきことも多い。

それでもやっぱり秋は内省的になって行く。

最も敏感に動けていた時は、場から離れればすっかり何もかも忘れていた。
その方が良いと思っていた。

今はまたちょっと違って場から離れている時に、
場を思う時間が大切になった。

場のことを思い浮かべる時間が楽しくもある。

いっぱい見て来たなあ、と思う。

ここで生まれているようなレベルの作品は他ではそうそう出て来ない。
当たり前にそう言ってしまうことが出来る。
それは事実だから。
でも、僕は場の中で絵を見ている訳ではない。

もっと言うと作品と言うのは手段に過ぎない。

場の全ては一つのところへ行くためにある。
そこではみんなが、自由で、平和で、輝く。これ以上のものはない。
そしてそれは誰も否定出来ない。

ここが最高の場だといつも言う。
普通はそんなこと言わないし、言えない。
確信がないから。それから自慢話ととられるから。
場は僕のものではないから自慢しようがない。

良い作品が生まれる条件がある。
良い場になる条件がある。
しっかりと条件を満たすのみ。

最近もそうだけど形だけ真似する人が後を絶たない。
表面だけまねる。どうにもならない。やっている本人も実感も充実感もない。
だから何処にも行けない。

本気でやる気があるのなら、いつでも教えるのに。

さあ、2、4週のクラスだ。
土曜日のクラスは集中という側面から見れば、今一番かも知れない。
かなり深く入る時間。

静かな夜に、虫の音を聴きながら場を思う。

2015年9月10日木曜日

水に包まれた時間

台風の影響で猛烈な雨が続いた。
圧倒的な水の世界だった。
平日のクラスと重なった日もあったが無事に。

ラジオに少しだけ出演します。
9月13日(日)朝7時05分〜7時15分頃 J-WAVE 「WONDERVISION」
生放送です。お時間のある方、宜しければお聴き下さい。

怒濤のごとく降り続ける雨の中で、時に水が止まって見えたり、
霞んで遠くへぼやけて行ったり、強い浄化を感じたり、
今もう、その雨が存在していないことが不思議だ。
こんな風にある全てが本当に夢幻のようなものなのだろう。
洗い流してくれる、という感じもあった。

いくつもの時間が交差する。
時に凄まじいスピードで駆け抜け、時に永遠のように静止して。
速い流れと、止まっているかのような場面が、同じ場で交わっている。

色んなことを思い出す。思い出すと言うよりは、その場面が動き出す。

場と言うものに人生の全てを賭けて来た。
今の場がどんなものであれ、それこそが与えられた回答だと思っている。
そして物理的には場に立つ時間はどんどん減っている。

役割を与えられて、そこに居られたこと、今こうしてここで見ていること。

これまで出会って来た人達のやさしさ。

想いをのせて、想いをなぞって来た。

どこまで来たのだろう。何処まで行けるのだろう。

場は何処から来てくれたのだろう。
僕にとっての場はいつ終わってしまうのだろう。

これまでも、これからも場の意志に従うしかない。
場が決めること。ずっとそうやって来た。

良いものも悪いものも、やって来る何ものも受け止めて、しっかり見て来た。
そんな全てが見せてくれているものの大切さ。
誰かから来たもの、どこかから来たもの。
ほんの一瞬しかこの場に留まってはくれないのだから。

自分なんて居ないし、自分のものなんてどこにもない。
それが場から見た答えだと言える。

だから与えられた全てを抱きしめる。

僕の心や身体を使って生きてくれている人達。
もう会えないと思っていたのに、こうなってからの方がより生きている人達。
最近は増々、みんなが居るのを実感する。

無数の時間と場所を同時に生きていることを実感する。
何もしないでも、何かがやって来て、何かをしてくれる。
ただ任せていれば良い。そして今しかない一瞬を全身で味わう。

誰かに見せてあげたかった景色があるなら、
今自分が見に行くこと。
そうすれば、みんなに見せてあげられる。
いや、それはみんなで一緒に見ているということだ。

降り注ぐ雨。溢れる水。流れる時間。
身体はまだ雨の音を聴いている。
あの場面だってある日、突然戻って来るだろう。

無数の場面が交差する情景を見つめながら、
また現場へと向かう。もう一度、更に深くなぞるため。
掛け替えのない時間と人と出来事に愛を伝えるために。

2015年9月7日月曜日

一緒に見たもの

土、日曜日の制作の場。
やっぱり最高の時間が流れていた。

とても静かで深いもの。

金曜日に久しぶりに東京都美術館の中原さんにお会いした。
人間同士、響き合えることが最大の幸せだと思える再会だった。
展覧会から一年が過ぎ、沢山の想いを伝え合ったけれど、
これはもうまたご一緒する運命なのだろう、と感じた。

それにしても、
中原さんはいつも僕の中にある深いものを引き出して下さる。

一緒に作品を見ながら、凄い光景を見ていた。
この景色が共有出来るからこそ、お互いを信頼出来るのだ。
こんな世界があることを多くの人は知らない。

数ではない。
僕達は深い想いを持った人達と響き合って、
本物の繋がりの中で、本当の仕事をしていく。

どうなるか分からないし、一寸先は闇と言うのは、
今の人類に突きつけられた真実だと思う。
でも、どんな状況の中でも最善を尽くして行こうと思う。
出来ることを全てやって行こうと思う。

昨日の午前の場の中で、
ここでよく書いている情景が再現されていた。
たった4人で居たのに、その場に沢山の人や想いや景色がやって来ては去って行った。
僕らは知っている偶然でこんな言葉や気持ちは出て来ない。
場に立つ時、僕達は個人ではない。
誰が誰とは言い切れないし、何処までがどうとも言い切れない。

みんなと出会えて、一緒に居られて、繋がることが出来て、
そして一度でもあの同じ景色を見られたことを忘れない。
本当に幸せ。

2015年9月3日木曜日

秋の空は

夏の後半は三重での時間を頂きました。

9月1日より東京で仕事しています。

早くも名刺の山状態だけど、その中で素敵な出会いもあった。

夏も終わって、雨続きの秋の空。

10月は一ヶ月お休みを頂き、三重で過ごします。

気持ちを切り替えて、精一杯の現場を頑張ります。

離れている人達もいつでも繋がっているし、
みんなが居る場所に僕は行く。

何度も書いて来ているけれど、一つの場は他の全ての場に通じていて、
深く入って行くとこれまであった全ての場が、みんなと共有されて行く。
ここが僕達の居る場所。誰一人欠けることなく、みんなが居る場所。
そういう言葉はなるべく使わないようにはしているが、魂の場所だ。
そこでみんなはいつまでも輝き続けている。

だからこそ、その実感をみんなが認識出来るような、
純度の高い場を創らなければならない。
一回の場はそれが最後になるかも知れないのだから。

色んな人に会って、色んなことがあった夏の時間。
三重のジャスコで買い物している時、ゆうたが玩具を見ると言うので一緒に。
乗り物の玩具を凄い集中力で見つめる。
純粋な眼差し。想像の中で玩具で遊んだりしている。
僕はパズルのコーナーをふと見ると、アニメのワンピースのやつが展示されていた。
その中に僕は知らなかったが、
モザイクアートというジャンルが存在するらしく、
沢山の写真を集めてその濃淡で一枚の絵になるように作られるものなのだろう。
ワンピースも見たことがないし、モザイクアートも知らなかったが、
そこにあったワンピースのモザイクアートのパズルに僕は感動した。
目が釘付けになって、その前に立ち尽くしていた。
アニメの無数の場面が一つ一つは鮮やかに一枚になっているが、
それらが集まって大きな一つの絵になっている。
主人公がニッコリ笑ってピースしている大きな絵。
ああ、そうこの景色は場だな、そうこれのことだよね、と思った。
一体になるという言葉をあまり好きでないのは、
その中で一つ一つの固有の輝きが曖昧になり溶けてしまうからだ。
それは眠りに近く、あるいは煮物のようで、場は決してそんなものではない。
むしろそれぞれの断片はかつて無い程、活き活きと輝いて動き出してこそ、
場だと言えると思っている。
だからそのパズルの情景は現場そのもの、人生そのものとも思う。
全体で一つの絵になっているのに、集まっている断片それぞれも、
そのまま一つ一つの景色として存在している。
喜怒哀楽、良いも悪いもみんなあって、これまで起きた全部があって、
それを同時に輝かせている一枚。
全部を入れた景色が笑顔でピースと言うのも本当だ。

みんな居るよ。みんなここに。
世界の全てがここにあるよ。
どんなことも、ここから見れば、素晴らしい何かなのだと。
だから一緒にこの世界を見て行こう。
だからみんな大丈夫。
降り積もる雪のように、音もたてずに満ちて行く実感。
何もかもが過ぎ去って、なにもかもがここにある。
音楽のように見えないけれど存在する調和の律動。

さあ、見に行こう。さあ、生きよう。全身全霊で。

良い時間を。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。